なんにもできなくてもいいかという話
最近、自分がずっと苦しかった理由のひとつをぼんやりと認識した。僕にはできないことがたくさんある。
ずっと「みんなスタートは一緒、他の子にできることはあなたにもできるはず」といわれて育った。その意見は正しいと思っていたし、努力次第で自分はどんなものにもなれると信じていた。ただ、残念ながらそんなことはない。全然ない。
人間にはそれぞれ能力があって、欠陥もある。それに、全員がフラットな状態でスタートできるわけでもない。幼稚舎から大学まで一直線の人もいれば、生まれた瞬間から借金を背負わされる人もいる。外食の味しか知らなかったり、目が悪かったり、数字が読めなかったりする。誰もがハンデだらけのでこぼこで、ものごとの見え方も全然違う。それなのに、あたかも全員が自由に好きな夢を描けて、しかもそれが努力次第で叶うかのように呪いをかける大人がいる。
どんなひとでも夢は叶えられるっていうのはそれ自体が夢だ。別にこの夢に罪はないけど、これに縋ってぼーっとしているとなんにもできなくなる。夢にたどり着くまでの方法は人それぞれなのに、みんな一律スタートっていうとあたかも正攻法があるみたいでむかつく。極端だけど、全盲の人に一般的な教科書を渡すのか?という話である。夢への道のりはセミオーダーであって、誰かの築いた道を参考にすることはできても、後ろについて楽して山頂にたどり着くことはできない。
でも、ぶっちゃけ適性ってあると思う。どんなに知識豊富でも致命的に手先が不器用なら外科医は向いてないし、心臓弱いのに陸上やりたいって友人が言い出したらやっぱり止めちゃう気がする。
無責任に「やりたいならやってみなよ!」なんて言えない。でも、本気で人生をかけてやりたいと言ってる人に反対したくもない。もしやるんなら自分のでこぼこ具合を認識してやった方がいいよと常に言いたい。そして僕にもそう言ってほしい。みんな同じスタートじゃないし一律のゴールなんてないし、攻略法も百万種類あるから、ちゃんと自分のでこぼこを認識して理性的に夢を見たいよねって言ってほしい。そんで、今夢見てることをあきらめなくてもいいかなって自分で納得したい。
なにかの基準で評価されることが多すぎると思う。東大入ったらすごいし、NASAで勤務できるなんてすごいけど、これは全員の頂点ではない。赤ちゃんは立てたらすごいし、ニートはバイト出来たらすごい。区別の副助詞だ。それぞれの人に「すごい」到達点があるはずなのに、一律の基準で評価されるから劣等感が発生するし、鬱にもなる。なにをそんなに競ってるんだろう。大企業目指してめちゃくちゃ頑張ってスキル磨いてもコンビニバイトしかできないなら仕方ないじゃん。もうキャパの問題だよ。でも、そのひとだって急に伝統工芸に目覚めて人形作りで人間国宝になれるかもじゃん。自分に向いた攻略法を取捨選択できるのもひとつのテクニックだし「みんな一律スタート」なんて幻想を信じてるから、そのスキルが育ってないだけじゃん。東大目指すにも、中学英語が分かってなかったら中学の教科書からやり直すべきだし、なんにもしなくても受かるんならそれでいいじゃん。そのひとはそういう人だったんだよ。その人が辿った道はお前の道ではない。合格体験記なんてほとんど意味ない。ちゃんと自分がどのレベルにあって、どういう方向性なら輝けて、どうしたらそこにたどり着けるのかっていうマネジメント能力をちゃんと教育してくれ。たすけてくれ。ほんとに助けてくれ。あまりに多くの夢をみて、すべて捨てて、なにを夢見ていたのか記憶すらどっかいっちゃって、どこに行けばいいのか全然分かんない。
最近は文章を書く練習をしています。文章がへたくそなのがずっとコンプレックスだったから。とりあえず努力してみようかなって思ってるけど、マジで誰にも読めない文章書いてるかもしれなくて超怖い。でも、できないことがあるからって自分を嫌いになってはいけない。僕に宇宙の広さはわからないし、電車でひと席あけて座ったあの人にも星の数はわからない。できないことはできないし、分からんことは分からん。それだけはみんな一律だと思う。文章が超下手でも大丈夫。本当に挫折しきって、文章が下手すぎて殺害予告されたりしたら、なんか他のことやって楽しくなろう。
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