死にたいか?本当にきつかったら全部やめて知らないとこで知らない人として勝手に生きて朽ちていこう。無責任なりに自分が持っている時間くらいには責任を持とう。
わたしにとって「死にたい」に一番近い感情は「消えたい」で、具体的には「別の場所で別の人物としてなんの責任も負わずに適当に暮らしたい」という感情である。
前は普通に「しにてぇ、しにてー……」と適当なことを言っていたが、今になって考えてみると周りに「死にたい」という言葉がありふれすぎていて、他人の「死にたい」に感化されてザックリと「死にたい」と言っていただけだったと思う。
でも当時はマジで死にたくて、紐を準備したりなんだり色々していた。毎日部屋の窓から飛び降りる妄想をしていて、窓から飛び降りたらいろんな責任がなくなると思っていた。
その「責任がなくなる」というのは、最初の方は死ぬことだと思っていたが、徐々に「飛び降りた結果、入院すること」に変化していった。(だいたい、大した高さもないので絶対に死ねない)
別に死ぬほどではないけど、不可抗力で責任を放棄し、そして出来れば休みたい。足を折ってでも休みたい。白いシーツの上でゆっくりしたい。石垣りんみたいに苦しくてもいいから病院でのんびりしたい(失礼すぎ)。電車に片足だけ轢いてもらおうかな、とかクソみたいなことを考えていた。
でも時間が経つにつれ、また変化していく。段々と、いや、足を折ったり入院するのもだるいな。そもそもそんな金どこにあるんだ……と変化していく。そんなことをしても何にもならないと気付いていく。
死にたい?てか邪魔されず休みたい。入院したい?てかそれって普通になにも背負いたくないだけじゃん?
結果的にわたしはこれらの思考を「消えたい」だと認識した。誰にも迷惑をかけず、誰にも知られず、他人が持つわたしに関するあらゆる記憶ごと消し去って、存在なんてもともとなかったことにして。
でもそんなの無理だからな〜というわけで、現実的には「失踪して別人として暮らす」が候補にあがった。記憶もないままにどっかの土地にたどり着いて、「橋の下で見つかったから橋下さんと呼んでますよ。とりあえずね」みたいなすげえザックリしたなんの責任もない感じの存在になって、てきとうにトマトとか食ってくらす。もうそれでいいじゃん。
そして、今もその考えがぎりぎりを助けてくれている。本当にきつかったら全部やめて知らないとこで知らない人として勝手に生きて朽ちていこう。無責任なりに自分が持っている時間くらいには責任を持とう。とか。
ただ、わたしは極度の不安症なので、こういう考えが常にあるとなると今度は逆に「急に自分がどっか知らない街に行っちゃったらどうしよう」と不安になってきた。
だから、とりあえず「誰なのか/どこの人なのか」みたいな最低限の情報がわかるように常にドッグタグを身につけている。米軍か。
ドッグタグを見てみると、自分に関する最低限の情報がアルファベットと数字で端的に記されていて、「あー自分てこれだけの情報があればある程度特定できちゃうんだ」っていう安心感と不安感が両方わきあがる。大事なことだと思う。21世紀の我々は、識別記号に対する恐怖心と安心感みたいな相反する感情が両立することへの不安と常に戦っていかなくてはいけない。
つらいことだ。
今は最後の晩餐をしている。
今晩も、また寝て起きたら別人になっているかもという恐怖心と、それならもう全部放棄していいんだという安心感への複雑な不安を抱いて眠る。
そのために最後の晩餐を開いていて、角煮が、おいしい。梅酒も、おいしい。もう全部溶けてこの時間だけ金太郎飴にみたいに引き延ばされていけばいいのに。
眠るのも怖いし、起きて「ここどこだろう」と毎日思うのも同じくらい怖い。
自分の連続性についてずっと不安に思っていて、それがここ最近顕著になってきている。秋だからだろうか。
はやく、自分として自分の居場所を確保したい。
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