いつかおれも「もう疲れた」とかいう名前で新規垢作るのかな……
なんだかもう無理になってきた。
何が無理なんだろう。具体的に無理なことを挙げる方が無理だけども。
なんで生きてるんだろうなんてキモいことは考えてない。生きる意味とかよく分からんし、その問い自体に意味を感じない。
逆に死ぬ意味というか、死ぬ必要もなくて、だから大体はどうにかなってる。死にたいとはいくらでも思うけど、じゃあ死にますか!と行動するほどのパワーがない。
よく……募集(BANされそうなので伏せる)とかで新規Twitterアカウント作ってハッシュタグつけて募集してる人を見るけど、あのパワー、すごい。普通に尊敬してしまう。
なんでこの世に見切りをつけたのに、またSNSとかいう人間の塊みたいなメディアで人間を募集できるんだろう。
見切りをつけたのは社会であって、個々の人間自体には愛着があるってこと?分からなくはないけど……
9月になったら死んでもいいや
と思ったら、突然Twitterにあまり興味がなくなった。他人の発言を眺めるツールの必要性みたいなのがよく分からなくなってきた。
いや、実際にアプリを開いてみるとなんとなくスクロールしたりはするんだけど、とはいえ前ほどの関心はないなと思う。少し前は人間が好きになっちゃって(コロナで恋しかった?)、うわ!人間だ〜つってTwitterにスリスリしていたのですが。
すこし精神に負荷がかかったらTwitterに対する愛おしさが薄まってしまった。なんて勝手なやつなんだろう……人間らしくていいけど……
知り合い(?)に何度も言われたトラウマな言葉たちがあって、
忙しいっていうのは言い訳。夜中まで作業してるのも無能の証拠。時間は作るもの。
みたいなやつ。これらにトラウマを植え付けられたこの個体は、ゴミカス非生産人間であることを自覚するたびにドン底まで落ち込み、ぼろぼろと泣いてしまう。
その度に「生き終わりて〜」と思ったりするが、やはり実践するほどのパワーもなく、なにも信用できない状態に陥る。自分自身ですら「死にたいけど死なない」とかいう最悪の矛盾をはらんでムカつくし、「自分ゴミカスすぎて死にたいでやんす!」と申告できるような相手もいないし、そんな相手がいたとしても迷惑だからやらんし、なんだかんだでそういう時にTwitterに戻ってくる。
だから、本質的には死にたくなって新しいアカウントを用意する人たちのことは理解してるんだろうなと思う。
いつかおれも「もう疲れた」とかいう名前で新規垢作るのかな……
なんとなく、あの手のアカウントの美学として、プロフィール画像は初期のままがいい、というのがある。やっぱ、カスタムするほどのこだわりを見せちゃうと「生きる気あるやん!」と見られてしまうんだろうな〜と思う。
「勇気がないので」「練○はありますけど車がなくて」「いっそ○してくれる人探してます」「一緒に〜してくれるひと」
なんかみてて落ち着く。
人間って自分を終わらせていくことだけが自由だな〜みたいな、こう、のほほんとした気分になる。
もちろん、話ききますよ!とか、やめてください!明日はいいことあるよ!の人たちもたくさんわいてて、うぉ〜と思う。
自分のパートナーとかだったらかなり分かるけど、マジで3秒前に知った(存在を認知した、に近い)人間にそれをコメできる精神を持った人間にサンが救えるのか??
とはいえ!
もちろん他人に愚痴って発散したいだけの人もいるだろうし、実際とにかく人間にぶちまけてみたいと思うこともあるだろうから、一概にキッショ!と蹴り飛ばすことはできない。
おれはその手の輩は信用してませんが……。
まあいろんな人がいるな〜と思えるから、やっぱりTwitterのことは嫌いではないと思う。
今は少し情報量に興味がないだけ。
機内モードみたいな生活だけが救いな気もする。
自分を大切にゆっくりしたい。
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